20年数年ぶりに男4人兄弟がそろって話したことは?
2014/04/17
先週、4月8日の午後、兄から母が倒れたという知らせを受けた。
母は94歳、山形で一番下の弟と暮らしている。
連絡をくれた兄は東京に住んでいる。
脱水症状が原因で意識不明になったとのことで、点滴を受け、隔離病棟に入っているとのこと。
母は2,3年前から認知症が始まり、「2」まで進んでいる。
すぐに下の弟に連絡したら安定しているとのことだったので、山形に帰るのは様子をみて明日のお客様とのミーティングを終えてから帰ることにした。
4月5日、母がいつ急変しても良いように、着替えを持って家を出た。
午前中は千葉でミーティングし、午後、五反田でミーティング、そのまま自宅に帰らずに東京駅から山形に帰った。
夜の9時前に赤湯駅に着いた。
4番目の弟が駅まで迎えに来てくれた。
面会は夜8時までとのことでその日の母への面会はできなかった。
実家に行くと兄と3番目の弟が待っていた。
4番目の弟の奥さんは仕事で東京に来ているので、家には男4人だけだった。
男4人、4番目の弟が用意してくれたごはんを食べながら、とりとめのない話、不謹慎だと思いながらも母が死んだらどうしなければならないかを話し合った。
誰かが、「こうやって男兄弟全員が会うのは久しぶりだなあ」と。
「こういうこともないと集まらないなんて、・・・」と。
元々私たち兄弟は口が達者ではないので話が弾むと言うこともなく、淡々と昔話をした。
「なぜウチが本家なのに貧乏で新家が裕福になったんだ」「おじいさんが酒と博打で山と田畑、家をなくしたというがほんとかな」「終戦後に農地改革があったことも影響しているのか」・・など、話をしているうちに、母の若い時の話になった。
兄しか知らない初めて聞いた母の話、皮肉にもこういう機会でなければ聞けなかった。
夜も遅くなったので3番目の弟が帰った。
明日は午前8時から面会が出来るということなので寝ることにした。
兄貴と布団を並べて寝るのは40数年ぶりだった。
翌朝、面会に行った。
母は点滴によって少し元気を取戻したようだ。
声をかけると、薄目をあけて細くなった腕を伸ばして頭を触ってくれた。
出にくい声を出しなが「早く帰りたい」と繰り返した。
「たけす・・」と長男の名前をしきりに言うが、かすかに「とすお・・」と言った気がしたがその後は「たけす・・」だけだった。
午後にもう一度面会に行ったが、朝よりもっと「帰りたい」と連発するようにない、怒るようになった。
「怒られちゃったな」と兄弟で笑いながら、「またくるから」と病室を出た。
容体が安定しているので、私は4月10日の夜いったん帰ることにした。
兄は弟が寂しがるからというのでもう一泊し4月11日に帰った。
その後、母は元気になり、ブドウが食べたい、メロンが食べたい、と言って弟を困らせているようだ。
今までは寝ている時間が長かったが少し体力がついたのか起きている時間が長くなり、「つまらない」を連発するようにもなった。
隔離病棟から一般病棟に移り、認知症の母を受け入れてくれる施設を探しているが、順番待ちがありすぐには入れないようだ。
弟から少し元気になった母の写真が送られてきたが、今の病院にいられるのは三カ月。
施設不足を実感した。
誤字があったので修正しました(20140418)
手塚利男
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